その他

自由って、行使できて初めて存在するものなんです

突然ですけど、自由って、どこかに「あるもの」だと思いますか?
…なんて質問はズレてるので、違う言い方をすると
自由が「ある」のと「ない」の違いはどうやって判断したらいいと思います?

それは「憲法に書いて『ある』のと、書いて『ない』」で判断しますか?
(憲法に自由が書いてあったら「自由はある」ということになって
 それが書いてなかったら「自由はない」ということになりますかね?)
けど、自由というものの実態は
そういう形式的なもので定まるほど簡単明瞭な話ではないと思うんですよ

ここでまた質問を変えますと、ボクたちはどういう時に「自由」を実感しますかね?
それは「自由を謳歌できたとき」でしょ
つまり、ボクたちは「自由を『行使できたとき』」に自由(の存在)を感じるのであって
自由とはそういうもんだと思うんですよ
ってことは、行使できないなら自由はない…ということになって
例え憲法に自由が書かれていても(≒体裁上は自由が保障されていても)
それをちゃんと行使できないならばその自由はない…ということになるはずです

この点、自由のなかで最も基本的で大切なものは精神的自由であり
そのなかでも表現の自由は人類(の進歩)にとって最も重要なものです
だから、言いたいことが言えること…は、何よりも保障されるべき自由であって
この自由なしには、他の自由もない…と言っても過言ではありません

ここで、「日本に表現の自由はあるのか」を考えてみると
それは「憲法に書いてある」けど、それだけで「ある」とは言えません
では、それがあるかないかをどない判断したらええのか…と言えば
先ほど言ったように、表現の自由が行使できてるならば「ある」だろうし
それが行使できてないならば「ない」ということになるでしょう

ボクはこうしてブログで好き勝手書けるし、個人が自由に表現できてるから、
日本には表現の自由が「ある」と判断することもできなくはない…けど
ボクを含めて名もない庶民の表現なんてものは
社会全体から見れば、残念ながら「ない」に等しいものです
(だって、表現というのは、それを受け止めてくれる人がいてはじめて「表現」と言えるからです)

そういう社会的事実があるから、憲法学においては市民にとっての表現の自由とは
「表現する自由」というよりも現実には表現の受け手の自由たる「知る権利」の側面が強くて
庶民にとって表現の自由とは知る権利のことである…と解説されているところ
じゃ、市民の「知る権利」(≒表現の自由)を充足させてくれるのは何か…と言えば、
それは報道機関による「報道」ということになるでしょう
(ボクたちは、表現できるし発信もできる…んだけど
 その伝達力にはおのずと限界があって、
 それは報道機関の表現伝達力には及ぶべくもないのですから)

とすると、表現の自由の現実の担い手とは、
残念ながら市民…ではなくて報道機関…ということになるところ
日本の報道機関は表現の自由を行使しているか…を考えると、とてもじゃないけど、
表現の自由(≒報道の自由)を謳歌してる…とは言い難く
報道機関は報道の自由を自ら放棄してる…という社会的現実があるので
日本における表現の自由の行使(≒報道機関による報道の自由の行使)は非常に心許ない…
ということになり、結果、日本には表現の自由はない、だって、
表現の自由の担い手たる報道機関がその自由を行使してないから…ということになるでしょう


※自由や権利というものは、憲法に記述できたらそれでOK…ではありません
なぜなら、市民の自由や権利というものは為政者にとっては「邪魔なもの」でしかなく
いつだって為政者からの脅威にさらされているところ、
それは民主主義を標榜する国でも同じです

だから、憲法に自由や権利が書かれてるから…で安心してはいけないんです
(憲法にも、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、
 これを保持しなければならない」(12条)としっかり書いてますしね)

今、第二次安倍政権下で、日本のメディアの「大本営化」(≒大政翼賛化)が
もはや完成してしまって、万事休す…のような状況になってますけど
日本より先にそういう状況になったのが、韓国でした
(韓国では、イ・ミョンバク政権のときにメディアへのあからさまな干渉介入が始まって
 それはパク・クネ政権でいったんは完成した…と言ってもよい状況でした)

しかし、韓国はなんとか踏みとどまった…というのがこれです↓

「記者が黙った 国が壊れた」
「日本のマスコミが報じなかった隣国のジャーナリストたちの闘い」
(ひとさまのtweetより)

韓国ではなんとか修正できた…けれども
日本は残念ながら、今のところ、修正の気配はなく
政権によるメディア干渉以前に、メディアが自主忖度自主規制する始末で
それに危機感を抱く市民もまだ多くはありません

上記tweetに出てくる映像のなかで
「全面ストライキでリセットしよう!」という呼びかけがあるんですが
かたや日本では「改元リセットで新しい時代の幕開けだ!」と、
空疎な劇が展開中…で、それを好ましく受け止める市民が多数…ということで
ボクは、彼らと我らの差を感じずにはいられません

今日の一枚の写真…

twitterで見つけた素敵な言葉…↓

「権利の平等で君の権利が減ることはない。権利はパイじゃない」

1

平等を嫌う者は世界中にいます
それは、「男女平等」はイヤだ…という人たちであったり
「内外人平等」なんてとんでもない…という人たちであったり
「人種民族信心が違っても平等」なんてあり得ない!…という人たちだったりします

ボクはこういう人たちが、なぜにそこまで「平等」ということに拒絶反応を示すのか、
その理由がホントによくわからんのですけども
そこには冒頭のtweetが指摘するような誤解があるんじゃないか…という気もするのです
(もちろん、単なる偏見や憎悪が理由になってることもあるでしょうけどね)

平等権というのは「限られた権利」ではなくて
それこそ、人の数だけある「無限の権利」だから
他者が権利の平等(=平等権)を得ることで、
誰かの平等権が削られるわけでも縮むわけでもない…のに
なんだか、他者が権利の平等を手にすると、
「自分が損した」ような気分になる人が少なくないのは
本当に残念で有害な誤解であり錯覚です
(これは特に、「内外人平等」に拒絶反応を示す人たちに多く見られる誤解・錯覚ではないでしょうか)

この「損した」気分というのは、結局のところ
「自分よりも権利が少ない人」の存在を当然のことと考えることからくるもので
それもはやり「内外人平等」に拒絶反応を示す人によく見られる心情なんだけども
とにかく、「自分は得して当然」で外国人や女性、あるいは他の人種や民族、宗教の人は
「(多少)損して当たり前」というのは、21世紀には到底通じない考え方なので
もうええ加減に、頭のなかを21世紀に揃えましょう…



※独立したエントリーにするのも気が引けるので
ここでエントリーの内容と関係のないことを付記します

最近、海外の方と思われる「英文」のコメントを頂くことがあります
ボクは英語がほとんどわからないので、
ネットの翻訳機能を使ってそのコメントを翻訳してみると
それはお褒めの言葉であったり激励であったりしたので
単純素朴なボクはたいそう喜んでおった…のでありますが
それらの英文コメントの末尾に韓国語で「お店の名前」のような表記が必ず付いていたので
どうもおかしいと感じて、現在はそういうコメントはすべて削除しております

ボクは当ブログにいただくコメントにおいて、
参考となるHPの紹介や記事へのリンクをしてもらえることに助けられてはおりますが
営業広告を含むコメントはさすがに承認しかねますので
そのようにお受け取り下さいませ…

想像力に枠をはめるのは、想像そのものを否定するようなもんだと思う

人間にとって、想像力って、とっても大切なものですよね
(それは人類の可能性に繋がることですからね)

でも、人間、歳を取ってくるとなんだか物わかりがよくなる…のではなくて
いろんなことに対して「諦め」の心境を抱くことが多くなるもんで
「どうせ無理だよ、そんなこと…」というような「諦め」をしてしまいがちになります

こうしてボクたちは、若い時に拡げていた想像力の翼を
自分でたたんでしまうのだけども
ボクたちが想像することさえやめてしまうと、
社会は「現状維持」の傾向を強めるだけ…だから
それこそ「何も変わらない」ことになると思うんです

とはいえ、「自分が生まれたときからそうだった」ことは
その人にとって「あまりにも当たり前」なコト…となりがちで
そういうものに対しては「それがなくなったら…」とか、
「それが大きく変わったら…」という想像すらしないこともあります
(これはもう、最初から「変えられない、なくせない」と諦めてる…ということですね)

けれども、想像するのはタダ…という言い方はよくないので訂正しますと
想像することに制限を設けるなんてもったいなさすぎ…なので
それがたとえ「自分が生まれたときからのこと」であっても
「それがなくなったら…」とか「それを大きく変えたら…」という想像を放棄してはダメです

「自分が生まれたときからそうだった」ことを変えるのを最初から考えない…
(=そういう想像さえしない…)のは、
「自分が生まれたときからそうだったこと」を疑わずにそのまま続けるだけ…であるところ
世界が…というか、人類がいろんなことに気づいてどんどん進んでいるなかで
日本だけが「自分が生まれたときのまま」でいいのか(それでやっていけるのか)…
と考えれば、それは自ずから答えが出ると思います

日本は今…というか、もうずいぶん前から誰が見ても「うまくいってない」と思います
そして、未だ「うまくいく方策」が見つけられないでいる…
それはボクたちが「自分が生まれたときからそうだった」…と、自分たちの想像力に枠をはめて
想像することすら放棄してる…ということも強く影響してると思うので
想像力に枠をはめて想像することすらしない…なんてもったいないことはやめにしましょう

悪法は悪法であって、法が「絶対善」であるわけないのである

人々にとって、「合法か違法か」という境目はとても重要な意味をもちますよね
それはなぜかと言えば、「合法」とは「(しても)いいコト」であるのに対して
「違法」とは「(してはいけない)悪いコト」…ということになってるからです

現代に生きる(≒民主主義社会に生きる)ボクたちは「法」というものに対して
漠然とした信頼を持ってるので
この、「合法=(しても)いいコト、違法=(してはいけない)悪いコト」という区別に
ほとんど何の疑問も持たず
この合法・違法の区別はボクたちの思考や行動を支配する…と言っても過言ではありません
そしてそれは国際法もいっしょで、ボクたちは(国内法に比べて知識や関心は低いとはいえ)
国際法上の合法・違法に関してもその区別に信頼を置いているところです

もっとも、国内法の場合には、それが昔のもの…例えば、
民主主義社会になる前に定められた法であった場合には
(今では否定されている)昔の非民主的な体制とともに、
その当時の法も「間違いだった」と考えることにそれほどの抵抗感はないはず…です
(これは形式的に見ると、いわゆる「その後の価値観による遡及評価」になってるんですけど
 例えば、昔の「治安維持法」が「間違いだった」と考えることにそれほどの抵抗を感じている人は
 あまりいないのではないかと思います)

ところが、それが国際法…ということになると、なぜか、
「当時は合法だった」というセリフが度々聞かれることになって
「当時の法も(それほど)間違ってはいない」と主張する人がけっこういる…
それがボクには以前からとても不思議でした

ボクは国際法にはまったく疎い…ので、専門的学術的な話などできませんので
ここから非常に大雑把な展開になりますけども
「国際法」なるものがなぜできたのか…という成り立ちを考えると
それは「外交上必要だったから」というよりも、
「ルールなき戦争」を繰り返してるうちに
「こりゃ、戦争するにもなんかルールというもんをつくっとかんとエラい目に遭う」…と
戦争を繰り返してた国々が気づいて、「外交のルール」ではなくて
「国際紛争(≒戦争)におけるルール」づくり…として始まったのだろうと素人考えで思ってるんです

それは「戦争を繰り返してるような(軍事力の)強い国」の利害に関わるルールだったので
「弱い国」の利害は置いてきぼり…となるのは必然…で
例えば「戦争捕虜に対する保護規定」なんかがジュネーブ条約で決まった際には
戦争にもならずに一方的に植民地にされた国の市民を保護するような国際法はつくってくれなかった…のであります
(…ってか、端的に「よその国を植民地にすることが(国際法上)違法である」という国際法も
 「戦争を繰り返してるような(軍事力の)強い国」はつくってはくれなかったのであります)

さらに言うと、戦争なんてもんは「国家間のケンカ」であるところ
それは「ケンカ両成敗」にせなアカンのではないか…と思うところ
(…と言いつつ、侵略に対する自衛の戦いは違います)
「戦勝国が敗戦国から『賠償金』を取れる」という「国際法」がある一方で
ケンカにもならずに一方的に植民地にされた国はなぜか、
植民地にした国に「賠償請求できない」というヘンテコリンなことになってるので
これはどこまでいっても「戦争を繰り返してるような(軍事力の)強い国」にとって
とっても都合のいい決まり(=国際法)になってるやないか…と以前から感じてるんです

つまり、「国際法」というものは、(現代において一部改善の兆しはあるものの)
基本的には「オオカミどもがつくる決まり」であるところ
「昔は国際法上違法ではなかった」と(形式的に)言ったところで、
だからどうした、悪いコトは悪いだろ…と素朴に思うのです
(これは、昔の「治安維持法が昔は合法だった」からといってそれがどうした…というのと
 おんなじような感覚です)

だからボクは、(当時の)「合法・違法」に焦点を当てた主張にはあんまり興味はない…どころか
「当時は合法だった」という理屈が過去の悪行を免罪しようとする方向に働く場合が多いので
そういうコトを言う人を疑いの目で見るクセがついてしまってるくらいです

素朴に考えて、昔の国際法がどのような内容であれ
昔、国内に「人のモノをとったらアカン」という法があったのであれば
「人の国をとったらアカン」となるのが自然当然…なので
当時、そういう国際法がなかった…と言ったところで
だから「違法じゃない≒悪くない=責められる理由はない+謝る理由もない」となるのは
自らを「オオカミの仲間」と自認するようなもんだと思うところです

悲しいかな、人でも国でも、
「自己が不利になる決まりを自分でつくる」ということは滅多にしてくれない…
それは古今東西に普遍的に見られる現象であり、
「昔のオオカミども」が相談し合ってつくった(あるいはつくらなかった)(当時の)「国際法」に
いったいどれほどの(法的)正当性があるのか…と言えば
そんなの、大日本帝国下の治安維持法とおんなじようなもん…じゃないかとボクは思います

好き嫌いはあって当然…で、それは誰にだってある…けど

人には「好き嫌い」がありますよね

それは、食べ物の好き嫌いから始まって、色の好き嫌い…とか
ファッションの好き嫌い…とか、芸能人の好き嫌い…とか
勉強、スポーツの好き嫌い…など、挙げていけばキリがありません

で、このような「好き嫌い」の理由は、例えば色の好き嫌いなんてもんは
理由なんか説明できない感覚的なもの…である場合が多いし
それはファッションもそうでしょう
(何をカッコいい…と感じるかは、それこそ客観的基準などなく、
 それはそれぞれの人の感性によるものだからです)

この点、食べ物の好き嫌いなどは、何をおいしく感じるか…という、
これまた食感…というか個人の味覚の問題だし
勉強やスポーツの好き嫌いなどは、
それが得意・不得意という個人的な都合からくるもの…である場合が多いと思います

で、ここまでの好き嫌いには、それほどの問題もない…ので
人の好き嫌いにとやかく言うのは野暮…ということになるでしょう
(だって、そんなの、個人の自由の範囲じゃん…というだけなので)

次に「国の好き嫌い」を考えて見ると
ほとんどの人には「国の好き嫌い」があるように思います
そして、その理由は…と言えば、その国に行ったこともなければ
その国の人と話をしたこともない…けど、
なんだか好き…あるいは、なんだか嫌い…ということになってるんじゃないかと思います
(もちろん、実体験に基づく好き嫌いもあるでしょうが
 外国(人)に関する実体験を持つ人はかなり少ないと思うところ
 そういう実体験がない人でも、国の好き嫌いがある場合が多いんじゃないかと思います)

先ほどボクは外国の好き嫌いに関して
「なんだか好き」とか「なんだか嫌い」と書きましたけど
この外国に対する好き嫌いは(特に理由のない)「感覚的なもの」なのか…と言えば
そこはかなり微妙なんです

例えば、ある国が「なんだか好き」という人に、なぜ好きなんですか…と聞いたら
その場合は多分、好きな理由をいくつか挙げて説明してくれるはず…で
それが「感覚的なもの」だと思ってる人はあんまりいないんじゃないかと思います
(そして、それは「なんだか嫌い」の場合も同様でしょう)

つまり、外国に関する「好き嫌い」には、
それなりの理由がある(と思ってる)人が多い…ということになるわけですが
特に「なんだか嫌い」のなかに「当該外国政府の姿勢や行動が気に入らない」…
という理由がある場合がけっこうあるんじゃないかとボクは推測してるんです
(ちなみに、ボクが「ある外国を嫌いになる理由」はそれがすべて…と言っていいくらいなので)

けれども、例えばその外国が「独裁国」であった場合には
その外国(の政府)は嫌い…で別にいいんだけども、その外国の人たちまで嫌う理由はないはず…で
(だって、その外国の人たちだってきっとその独裁政権を嫌ってるだろうしね)
じゃ、民主主義国なら「政府が嫌い=その国の人たちが嫌い」ということにできるか…と言えば
これまたその国の人たちがすべて政府を支持してるわけでもない…から
そういうことにもできないはず…です
(そやかて、安倍政権とボクをごっちゃにされたら、そら堪りませんがな…)
だからボクは、アメリカは嫌い…だけど、アメリカ人が嫌い…というわけではないし
ボクは特定の国や地域の「人たち」を嫌い…だという感情は持ちません

つまり、「国の好き嫌い」のうちの「特定の国嫌い」…という場合でも
それは「国を嫌う」(≒その国の政府を嫌う)だけで
その国の人たちを嫌う…ということにはならないはず…というか
そういう結びつけをしてはいけないはず…なんです

ところが、どうもその峻別があやふやな人がいて、そういう人たちは
「どこそこの国(の政府)が嫌い=その国の人が嫌い」ということにしてしまうわけですが
それは非常に「危険な好き嫌い」だと思うのです

さらに、その「特定の国嫌い…だからその国の人も嫌い」という感情に
その国の人たちへの差別感情が入ってくるともう修正は不可能…といってよく
もう、誰が何をいっても「あそこの国の人間は気に入らん」…
ということになってしまってお手上げ…になるのであります

…というか、(本来は持てないはずの)「特定の国の人が嫌い」という悪感情というのは
ほぼ「その国の人への差別感情(あるいは偏見)から発する」と言っても過言ではないわけでありまして
「どこそこの国(の政府)のすることは嫌い」というところまではいいけど
「どこそこの国の人のことは嫌い」という悪感情は
少なくとも「表には出せないもの」だと思うのであります
(この点、「どこそこの国の~という誤った政策を支持する人たちは嫌い」という感情は持ち得るでしょうが
 それは特に外国に対してだけの話ではなくて、自国においても当てはまることなので
 要するに「いっしょくたにして嫌う」というのが危険…ということですね)


※「どこそこの国が嫌い」という場合に
政府の態度や行動だけではなくて、その国の文化や習慣が嫌い…
という理由があることもあるとは思います
そして、文化や習慣はその国の人々の営みから成り立つものだから
その点においては、「その国の文化や習慣が嫌い≒その国の人(の営み)が嫌い」…
となり得る余地がないわけではありません

しかし、この理由もまた非常に微妙なもので
まず、外国の文化や習慣を否定するのは非常に危険である…し
(とはいえ、人権の普遍性に明らかに反するような文化や習慣は肯定などできませんが)
先ほどの民主主義国の例と同じように、
その国のすべての人がその国の文化や習慣を実践・支持しているのか…と言えば
そんなことない…わけでありまして
(だって、「男尊女卑」が日本のいまだ「根強い文化」だとしても
 そんな「人権の普遍性に反する文化」を現代に生きるすべての日本人が
 実践・支持してるわけでもないからです)
やはり、「その国の文化や習慣が嫌い」だから「その国の人が嫌い」ということにもできないだろうと
ボクは考えるのであります