あの戦争での日本軍の死者の半分以上が「餓死・戦病死」だったことが
ようやく日本社会で明らかにされつつあります
(と言っても、それはまだ日本社会の共有事実になったとは言えず
 多分、今もって、ほとんどの人は「日本兵のほとんどは戦闘で死んだ」と思ってるはずです)

死亡した兵隊の半数以上が「戦闘で死んだ」のではなくて
「病気」で死んだり「餓死」したりした…というのは
およそ、世界史上でも稀なのではないかと思うところですが
そんな稀なことが起きたのは、「戦争の狂気」なるもののせい…でもなく
端的に「戦争を起こした者」のせい…であり
「負けるとわかってるのに戦いを続けさせた者」や
「戦えないとわかってるのに戦わせた者」のせいでもあります
(この場合の「戦えない」というのは、戦闘以前に、食料がない…などの
 基礎的物理的要因のために「戦えない」ということです)

日本では、あの戦争の戦死者をして「国を護るために戦った」…とか
「その犠牲があって今の繁栄がある」(≒アナタたちが死んだおかげでその後繁栄できた)
…なる言説が今もって広く受け入れられているところですが
これは要するに、国が「戦死者を褒めてる」ということになってるんですね

この点、人は(…というか、死んだ人の遺族は)、
褒められると(なんだか悪い気がしなくて)怒れなくなる…ので
これは戦死者遺族が国に怒りを向けることを巧妙に避ける「褒め殺し」と言える欺瞞…なんですが
敗戦後の日本では、この「褒め殺し」と「軍人恩給」という経済的アメによって
多くの戦死者遺族が「(名誉ある)英霊の遺族」として黙ってる…という社会状況ができあがってしまって
それが現在まで続いてるところです

そしてそれは、戦死者遺族だけ…というわけでもなく
幸運にも生きて帰ってきた元兵隊さんたちのなかでも
自分たちがしてきた(…というか、やらされてきた)ことは悪いことじゃないんだ、
それは「国を護ること」であり、さらには「アジアの植民地を解放するため」ためだったんだ…
と思うことで、戦争中にしていたことへの罪悪感を軽減しつつ、
戦争中の(不都合な)行為を語らない…という選択をする人がほとんど…でした
(それは、戦争中の(酷い)行為を正直に話し、反省する人に対する様々な脅し圧力があった…
 ということも無視できない要因です)

けれども、そういう脅しや圧力に屈せず、
あの戦争の本質をそのまま語り続けてくれたありがたい人もいたのです…↓


元日本海軍兵・瀧本さん逝く 愚かな戦争語り続け

朝日新聞大阪版 2019年1月22日

 戦争の愚かさを子どもたちに語り続けた元日本海軍兵の瀧本邦慶(たきもとくによし)さん=大阪市東淀川区=が昨年12月28日午前6時8分、入院していた吹田市の病院で誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。97歳だった。

 香川県出身。1939(昭和14)年に17歳で佐世保海兵団へ志願し、太平洋戦争の始まりとなる41年12月の真珠湾攻撃や、戦局の転換点ともいわれる42年6月のミッドウェー海戦に送られた。「餓死の5分前」まで追いつめられたトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)で敗戦を知った。

 戦後は大阪市で不動産業などを営み、2008年から語り部に。ときに軽妙な語りが評判となって府内の学校を積極的に回った。

 17年7月に脳梗塞(こうそく)で倒れたが、リハビリを重ねて18年3月に講演を再開していた。同年11月28日に再び発症。家族によると、驚異的に持ちなおして1カ月後にはリハビリのため転院する予定だった。瀧本さんは生前に献体登録をしていたため、遺体は大学病院へ送られた。

 遺言に従い遺族は死去を伏せていたが、講演依頼が今も寄せられるため公表することにしたという。「葬儀などについては遺骨が帰ってきてから考えようと思います。それまでは連絡や心遣いは遠慮させてください」と話している。

若者への言葉 拝みの響き

 戦争そのものへよりも、戦争を起こす者への怒りが大きかった。息子や夫の戦死を言祝(ことほ)ぐように強いた者に、みじめに餓死していった戦友を英霊とうそぶく者に対して、真っすぐに怒っていた「安全地帯」から戦争をあおった政治家や官僚、軍の上層部を生涯、許さなかった

 死線を幾度も越えてきた「生かされている者の責任」として始めた語り部活動を、瀧本さんがやめると言い出したのは2016年8月のことだった。

 「講演活動を続けても何も変わらない」「時代はますます悪い方向へ向かっています」。親しいジャーナリストの矢野宏さん(59)に、そう吐き出した。直前の参院選で改憲勢力が大勝したことに落胆したのだ。

 それまでも、13年の特定秘密保護法、14年の集団的自衛権行使容認の閣議決定、15年の安保関連法と続いていた。これらに戦争の「腐臭」を嗅ぎとっていらだちを深め、17年の「共謀罪」法制定で、「くるところまできたんですわ」と極まった

 自分のような下っ端の兵隊なんぞ軍隊と戦場にあっては消耗品か取り換え可能な備品。虫けらのように殺されて当たり前――。そう繰り返し語ってきたのに、国民は分かってくれないと焦りを募らせていた。

 中止宣言を撤回したのは若者への思いだった。宣言後も寄せられる講演依頼をどうしますかと聞くと、小学生から届けられた感想文に目を通しつつ、「……たぶん、行くと思いますわ」と答えた。「選挙の結果を見て分かりました。もう大人は信用ならん。これからは若者の命を守る一本でいきます」。それからは再び、講演の日時と場所をカレンダーにうれしそうに書きこんでいた。

 天皇陛下のために死ぬ。お国のために死ぬ。死ねば神として靖国神社にまつられる。これこそ男子最高の名誉――。戦前の日本を覆った風潮を素朴に信じた瀧本さんは、徴兵検査を待たず、17歳で佐世保海兵団を志した。23歳までの青春時代を戦争に捧げた。

 なれの果てが南洋の小島での飢餓だった。周りが骨と皮になって死んでいく。弔うこともかなわない。薄らいでゆく意識の中で、「ここで野垂れ死んでヤシの木の肥やしになることのどこが国のためなのか」と考えた。国にだまされたのだと気づいた

 あの戦争への郷愁の一切を、瀧本さんは鉄の意志で拒んだ。おかみの言うことを疑わなかったのは愚かだったと自らを裁いた。

 若者よ、私のようにはだまされないでくれ。「国を守る」などという耳に心地よい言葉に惑わされないでくれ。若者を戦争で殺す。その戦争でもうける。それが戦争なんだ。そんな戦争なんかに行くな。頼むから命を大切にしてくれ

 若者に語りかける瀧本さんの言葉は、拝みの響きさえ帯びていた。

 ある日、瀧本さんが仏壇から両親の写真を持ってきて、ずっと眺めていたことがあった。「おかはんは特別の特別ですねん。私は死んだら、おかはんのところに行きます」。100歳まで語り部を続ける夢はかなわなかったが、母アキノさん、戦後の苦楽をともにして先に逝った妻節子さんとの再会を楽しんでいると私は信じる。

「老人が戦争を始め、若者が死ぬ」…とはよく言われることですが
なぜそうなるのか…と考えて見ると、それは「戦争を始めた者は戦争に行かない」からです
(逆に言うと、「自分は戦争に行かなくていいと思ってるから戦争を始めてもいいかな…」と考えるんです)

そして、そういう「戦争になっても自分に危険は及ばない」という「安心感100%の無責任思考」は
「自分さえ安全だったらその他のことは考えない」という超利己的な思考に繋がって
自軍の兵隊がどうなっても構わない…という前提での無謀な作戦?を繰り返すことになり
それが「戦病死」「餓死」が半数以上…という、世界史上類を見ない結果となったのであります

「戦争が悪い」…それはその通りではあるんですが
戦争は自然災害でもなんでもなく、人が始めること…だから
「戦争が悪い」んじゃない、「戦争を始めた者が悪い」…
「戦争が憎い」んじゃない、「戦争を始めた者が憎い」…
ということになるのに、そうならないために「戦死者を褒め称える」のが
戦争中も敗戦後も変わらぬ靖国神社の役割であり
その欺瞞を今でも続けて戦死者やその遺族を「褒め殺し」してるのが
自民党をはじめとする保守右翼…で
なんで彼らがそんなことをしてんのか…と言えば
あの戦争を始めた者の後継者だから…です

だから、自民党をはじめとする保守右翼があの戦争を反省するわけない…のでありまして
そのような政治勢力が敗戦後ほとんど一貫して政権の座にある…というのは
日本の悲劇…だとボクはずっと感じているところですが
それは、あの戦争で大きな被害を被ったアジアの国々にとっても大変迷惑な話でありまして
このような国が周辺諸国とうまくいかない…のは当たり前だのクラッカーと言うべきでありましょう


※このエントリーは以下のブログ記事に触発されて書いたものです…↓
(…というか、「元ネタ」というてもいいですわ)


上記記事には、ある芸術家の作品が紹介されておりまして
その作品のなかに「国会議事堂」の模型があるんです…↓

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ボクはこの作品を見て、ここは国会議事堂ではなくて「皇居」の模型にしてほしかった…と感じたんですが
もし、皇居にしたならば、作者が殺されかねない…のが日本社会(における右翼)の現状…なので
そこまで望むのは酷かな…と思うところです

とは言うものの、それはこの作品を見たボクがそう考えただけのことで
あまた死んでいった(…というか、戦争遂行勢力に殺されたと言っていい)兵隊さんが
現在の国会での「反省なき先祖帰り」を見ていたら
黙ってられないだろう…という解釈もできるので
この作者が「ひるんだ」ということではない…と受け止めております